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もろもろ記念日と命日

はい、まさみです。
毎度、久々の投稿です。

お陰様で、今年も7/19に私の誕生日と結婚記念日を家族で迎えることが出来て、本当に有り難かったです。

私も四捨五入したらアラフィフ。
もうすぐ3歳になる椋太は、どんどん動きが激しくなって、ラグビーのタックルのように激突されると、ぐふぅー!!と体への衝撃が半端なくなってきました。

結婚生活も15年目。
ここ数年、激動の毎日ですが、お互いの忍耐?の賜物?で目出度く記念日には、とっても美味しいステーキをいただきました!
椋太との3人の記念写真は、夢みたいだな〜、としみじみです。

椋太は、本当によくおしゃべりするようになり、先日はパパのことを、
「ゆうすけぇ〜!」
と呼ぶようになったり。。。
何となく会話も成立するようになってきました。
子供の成長は本当にすごいです。

そんな椋太と一緒に、毎朝の神様へのご挨拶と、ご先祖様の供養をしています。
一緒に正座して、2拍手したり、お線香を挿したがったり、鈴を鳴らしたり。
文言も、もにょもにょ真似するようになりました。

そして、今日8/15は満州で戦死した母方の祖父の命日。
あ〜、今日はおじいちゃんの命日だな、と思ったら、涙が湧いてきました。

府中に住んでる頃に、急に祖父の事が気になり、何かに突き動かされる様に調べまくり、ブログにも投稿して来ました。
ただ、何故、祖父は戦死しなければならなかったのか?何故、戦争は起きたのか?
調べれば調べるほど、学校で学んだ歴史とは違う話や、はたまた陰謀論など、何が事実なのかわからなくなるばかりで、投稿できずにいました。

ただ、今の私に出来ることは、以前、おばあちゃん先生に言われたこと、

「ご先祖様の苦労を、あなたが自分の子供にしっかり伝えていきなさい。」

それを初めて実践してみました。
仏壇へのご挨拶の後、オモチャで遊ぶ椋太へ話しかけました。

りょうたん、聞いてね。
ママのおじいちゃん、りょうたんのひいおじいちゃんは、遠い昔に満州って言う遠い国で、戦争って言う人と人とが殺しあう争いで、死んじゃったんだよ。
おじいちゃんは、子供3人残して死んじゃったんだよ。
おじいちゃんは子供の成長を見たかっただろうね。
ママのママ、りょうたんのばばちゃんは、りょうたんと同じくらいの歳に、お父さんが死んじゃったんだよ。
りょうたんも、パパが死んじゃったら悲しいよね?
パパと、ずーっと会えなくなったら、悲しいよね?
ひいおばあちゃんは、子供3人連れて遠い遠い道のりを命がけで帰ってきたんだよ。
ばはちゃんが、りょうたんと同じ歳くらいの時に、騒ぐと見つかって殺されちゃうから、見捨てろって言われても、ひいばあちゃんは、いやだと、命がけでばばちゃんを連れて帰ってきたんだよ。
ばはちゃんも、りょうたんみたく小さかったのに、騒いじゃいけないってわかって、ずっとガマンしてたんだよ。
りょうたんが、注射するの怖くてもガマンしたみたいにね。
りょうたんのひいばあちゃんが、ばばちゃんを連れて帰って来てくれたから、ママが生まれて来れたんだよ。
だからりょうたんが生まれて来れたんだよ。
ご先祖様が誰か一人でもいなかったら、りょうたん生まれて来なかったんだよ。
すごいことだね。

そうなの〜?
と時々相づちを打つ椋太でした。

話しながら、どんどん泣いてきてしまった私。
りょうたん、ぎゅーしてぇ〜!
とお願いしたら、ニコニコしながらやって来てギュッと抱きしめてくれ、泣き顔の私をニコニコ見つめてくれました。

おばあちゃんが、子供を置いていけと言われても嫌だ!ととった行動は、子供を産んで一段と、祖母の母性の強さなんだと、尊敬するようになりました。

椋太は、今は全く意味がわからないだろうけど、それでも毎年伝えていきたいと思います。
by 祐介 * 戦争の記憶 * 23:14 * comments(0) * -

8:戦争の記憶〜満州引き揚げ体験記

※文中のカッコ内( )は、私の追記です。
また、丸○は、文字が判読出来なかったものです。


<祖母の満州引き揚げ体験記>



昭和14年4月、満州に子供1人(長男)を連れて行きました。
主人は前年(昭和13年)、お祖父さんはその前年(昭和12年)に行っておりました。
何不自由なく暮らしておりました。
(主人=祖父は陸軍軍属として、貿易商を営む。)

昭和20年8月15日、終戦になり主人は新京(現在の吉林省長春市)におりましたが、
(祖母は、新京の南西約60キロの吉林省公主嶺市に離れて暮らす。新京の祖父から祖母の近くに暮らす義弟嫁宛てに、電話でソ連が侵略して来たから逃げろ!と連絡あった。)
いつ帰ってくるか安否を待っているうちにも、満人が非道極まりなく暴れ回り、ロスケ(ロシア人への蔑称)も入って来て、命も縮む思いで子供をかばいながら隠れていて、ようやく命だけは助かったので、それから子供3人を連れて弟(祖父の弟)の所に厄介になる様になりました。
実に、生きて居る心地はしませんでした。
今考えると、ぞっとする程です。


8月29日分かったのですが主人は8月15日終戦と同時に亡くなり、(満州国新京市北東部の東天街の防空壕内にて)
お祖父さんも8月31日に亡くなりました。
私が34歳の時でした。
子供は大きいのが8歳、次が5歳、次が2歳足らず(私の母)の子供を残され、3人の子供をこれからどうして育てたらよいか途方に暮れました。


そのうち北満(満州の北部)から避難民がぞくぞくやって来ました。
内地(日本)に長男だけは連れて帰ってもよい、小さな子供は足手まといになるからつれて帰ってはいけない(小さな子供が泣くと敵に見つかってしまうため。)と申されましたが、我が子をどうして満州に残して帰れませう。

荷物を制限され丸帯をリュックにして、(土地の権利書を着物の襟の中に縫い付けて)、身の回り品を少し持って引き揚げ命令が出るのを今か今かと待って居りました。


21年7月21日に引き揚げ命令が出ました。(命令までの約1年間の暮らしをどうしていたかは不明)

(グーグルマップによると住んでいた公主嶺市から大連港までは約640キロ。大連までの道中、自分の子供を小屋に入れ火を点けた者、中国人に預けた者もいたそう。そして、子供を置いてきた罪悪感から引き揚げ船から身を投げた親もいた話もあり。)

途中船の中、お米配給もなくコーリャン(モロコシ)を食べて子供達はお腹をこわし、本当にひどい目に遭い、主人がいたなら荷物は持ってくれるでしょうにと思い、3人子供を連れて大隊中隊小隊と分かれて来ましたが、段々と落伍してしまい、みんなに励まされて来ました。
途中、船の中からコレラの保菌者が出たので、あちらに1週間こちらに1週間碇泊しておりました。
敗戦の惨めさを本当につくづく感じました。


船の中で、内地に帰ったら着る物に困るだろうと思って甲板に出ては、子供の物を仮縫いして来ましたから、それを縫って居りました。
内地に帰ったら、そんな事をしてはいられない、食べる事を考えなければと思い。


ようやく9月8日に博多に上陸致し、9月11日に懐かしい鳥屋(現在の神奈川県相模原市緑区鳥屋)の実家に着きました。
途中52日目で帰って来ました。

それから実家に1ヶ月お世話になって働いて居りました。
いつまでもお世話になっている訳にもいかないので、他のうちを借りて居りました。
帰って来てみれば食糧難でサツマイモの買い出し、木炭を持って行ってお米と交換して来ました。
小さい子供3人を残して外に出て働き、◯に学校から帰って来れば、3人で◯を食べて学校に行き、外へ出て働くと子供が可哀想と思って、幸い山、畑を残して満州に行ったものですから、何しろ家もなく、どんな家でもよい雨風がしのげればよいと思って、23年に小さな家を建てました。
今の様ではありません、働く所もなく何をして子供を育てたらよいかと思って、小さなお店(駄菓子屋)を始めました。
畑も返して頂いて、4畝ばかりの畑を耕作して16品も蒔き付け、鍬を持った事のない私は子供にお腹一杯食べさせたいと思って、一生懸命やって来ました。


福祉のお世話になって生活保護を頂きながら、子供を育てて参りました。
子供が学校に行っているうちにお夕食の仕度をして、子供が帰って来れば店番をさせて畑に飛び出し、そして現在のようではありません、石油、ガスもなく薪木を取りに、長男を連れて山に行きました。
私は主人にも主婦にもなり下男にも下女にもなって働きました。
私のヒガミから知れませんが、引き揚げて来たので皆様から馬鹿にされる様な気がして、よし男にも負けまいと思い、子供だけは一人前に育てたいと思い、自分ながらキツイ人間になりました。
そして再婚の話もありましたが、子供に対しては本当の父ではなく子供がどんなになるかと思えば、とてもその気になれませんでした。


保護費も1ヶ月500円に減額されてしまい、どうする事も出来ず、民生委員の申されるには、山畑があるので全部売ってしまえば、もっとたくさん保護費を上げてやると申されましたが、売ってしまえばそれまでと思い、何とかして今日まで持ちこたえて来ました。

長男が高校へ行きたいと言うので、主人の弟が出してやると言うので、働きながら高校に出して頂きましたが、先方にも同級生が居りますので、3年生から育英資金を借りて卒業をしました。

次男が中学を卒業しましたので、生活保護を打ち切りました。
その時、長谷川所長さんから「がんばってやってくれ、どうしてもやっていけなければ申し出せ、その時はなんとかしよう」と言って激励のお言葉をいただき、また民生委員をしていらっしゃる郡会長さんからもお情け深いやさしいお言葉をいただき、一生忘れる事は出来ません。

次男は母子福祉資金を借りて高校に行き、新聞配達をして通学を致しました。
父母のある他所の子供はバスで通学するのですが、新聞配達をするのですから自転車で通学致しました。
そのお金で学用品を買ったりしました。

その時、近所の人からは未亡人の子供のくせに高校へやる、炭焼きの子供は炭焼きをしていればよいと申されましたが、勉強をするときにしないと後ではなかなか出来ないと思い、福祉資金を借りました。
どうか皆様方の中にも高校に行きたいと言う子供さんがおりましたら、母子福祉資金をお借りしてはどうか、子供さんに勉強だけはさせてください。


今は、3人子供もそれぞれ世帯を持ってみんな子供も出来ました。
私も婦人会の方から会長を仰せつかって2年間やらせて頂きました。
以前生活保護を頂いておりましたが、お金ではお返しする事は出来ませんので、2年間社会奉仕のつもりでやらせて頂きました。
万分の一でもお返し出来ればと思い、一生懸命やって参りました。
今では長男とも勤めの都合上別居しておりますが、一人でお店をやりながら自分の好きはお裁縫を少しずつやって居ります。
今どうにかやって居りますのも福祉の皆様方、また多くの皆様方のお陰と思い、感謝致して居ります。
簡単ではございますが、私の拙い話をご清聴ありがとうございました。
皆様お体をお大切に一人の親です、どうぞご自愛なさってください。


 昭和42年郡母子福祉会総会にて発表いたしました。
by 祐介 * 戦争の記憶 * 17:32 * comments(0) * -

7:戦争の記憶〜祖父の命日と終戦記念日

まさみです。
ヘビー?な投稿続きます。

8/15。
母方の祖父の命日と終戦記念日です。
お腹の赤ちゃんにも、胎教として「今日はひいおじいちゃんの命日なんだよ〜。戦争で亡くなっちゃったんだよ〜。」と話しかけてみました。

そして今年初めて、テレビの全国戦没者追悼式の黙祷に合わせて、黙祷をしました。

おばあちゃん先生から、自虐史観でない本当の歴史を知りなさい、と言われたお陰で、自分なりに歴史を学び直し、何故祖父は戦争で亡くならなければならなかったのか?と言う想いも昇華された感じです。

今の当たり前の暮らしがあるのも、2,676年と言う日本の歴史の中で、元寇や明治維新、日露戦争や先の大戦など、その時代時代で日本を、家族を護ろうと命をかけてくれた人々のお陰で成り立っていること、そしてお陰で一度も植民地にならずに、日本の歴史、文化を継続出来ていることに、感謝の思いです。

ただ、なぜ自虐史観を教えられたか?と言う戦後の日本の闇を知り、さらにその延長上に、震災が起きた前政権時代に日本が乗っ取られそうだったこと、日本が日本でなくなりそうだったことも知り、今もじわじわと危機が迫っている状況に、お腹の赤ちゃんが大人になるのに、どうしたらいい世の中を引き継げるのだろう?と考えてしまう今日この頃です。

さて、このブログには、2010年から2013年まで、カテゴリー「戦争の記憶」として、母方の祖父関係の投稿をしてきました。

1:戦争の記憶〜プロローグ

2:戦争の記憶〜祖母の裁縫箱

3:戦争の記憶〜府中にて

4:戦争の記憶〜講演の原稿

5:戦争の記憶〜伯父さん

6:戦争の記憶〜靖国神社

8/15

ただ、最も書きたかった祖母の手紙のことは書けずに、2013年で投稿が止まっていました。

何故なら、2013年の夏におばあちゃん先生から、「あなた自身があなたの子供にその手紙の内容を伝えなさい!」と喝を入れられたからです。

当時は、不妊でどっぷり悩んでる最中だったので、書くに書けずにいました。
やっと書ける時が来たようです。

お祖母ちゃん、公表するよ〜。
ちゃんと、子供にも語り継ぐからね〜。



by 祐介 * 戦争の記憶 * 17:18 * comments(0) * -

麻溝台地区の生い立ち 相模原旧陸軍士官学校練兵場跡地開墾60周年記念誌(長文です)

はい、まさみです。
この本を地元の公民館の小さな図書館で発見しました。
私の実家周辺の歴史が書かれた非売品の本です。テレビで卵特集があれば、たまご街道と紹介されるくらい養鶏場が沢山ある地区辺り。

おお〜!!ご先祖様が知ってほしがってる!?

この様な自分に関係ある歴史を調べたり、知ったりするのは、楽しいんですよね〜。関係ないと、全く頭に入らないですけど。。。

実家の土地は、開拓1世になる祖父母が苦労して開墾してくれた土地で、それを開拓2世の両親が上手に活かしてくれたお陰で、3世の私は不自由なく育ちました。
小さい頃から、何となく苦労話は聞いてきたので、私なりに土地に対する想いは強いのかも知れません。

でも、子供時代はこの周辺がそんなに好きではなかった記憶が。。。
養鶏場臭くで、蒸し暑い時期は吐き気するほど。
工場地帯で自然も少なく殺風景。
それと、歴史が浅くて、祭りとかワクワクしない。
フェンス向こうの米軍住宅地はゆったりとした空間なのに、こちら側は密集住宅地。
厚木基地の飛行機の騒音。
どこか、殺伐とした雰囲気を感じていました。

でも、それは私が歴史の一部しか見てないからだと、この本を読んで気付きました。
この本から、日本の歴史、この地区の歴史と流れがわかり、どれだけ沢山の想いの上に出来上がった地区か知ると、ただの景色に愛着が湧く気がします。

では大雑把な歴史。

*******

相模原市の特に市の大部分を占める上段地区は、江戸時代まではただの原っぱで、水も湧かないので人は住んでいなかったようです。
あまりにも、ただっ広くて見晴らしが良かったので、明治時代に日本初の測量の基準点が作られました。

それでも戦前には、今の相模線沿いの中段地区に住んでる住民が、薪や堆肥作りのために徒歩で通いながら開墾を始め、深く井戸も掘って、この地域に数軒暮らしました。

しかし、戦争が始まり、相模原市は軍都計画により、多くの軍事施設や士官学校が出来ました。
そして、私の実家周辺は陸軍演習場として指定され、暮らしていた数軒は相模川寄りに立退きを強制されました。

そして、敗戦後は日本軍の施設は殆どが米軍に接収され、座間キャンプや米軍住宅地になりました。
演習場だったこの地区は接収されず、満州からの引き揚げ者を中心として、生活の糧のために国策で再度開墾が開始されました。
それで、母方の親戚が引き揚げ者として、入植しました。
実家の祖父母は引き揚げ者ではなかったですが、戦前に立ち退いた相模原川寄りのグループとして、この地区に入ったようです。

ちょうど私の実家の土地は、戦前に立ち退いた人の土地で井戸もありました。(今は枯れて埋めた)
祖父母は正当に土地を手にいれましたが、立ち退いた人々の気持ちを思うと、かなり悔しかったと思います。

そして、酸性度の強い関東ローム層と水の少なさから、農業がなかなか上手くいかず戦後数年はかなり厳しい生活だったようです。
その中で、満州引き揚げ者、南方からの帰国者、相模原川寄りの元住民と、それぞれグループになり、6地区で開墾農業共同組合が組織され、治水や肥料のお陰で軌道に乗る農家と、上手くいかず米軍基地に勤める者も出てきました。

昭和37年に法律改正で整耕検査(農地として使われてるか)がなくなり、土地を手放す者も出て、それで養鶏場が京浜地区から移転してきたり、相模原ゴルフクラブや日産部品工場など大規模工場が作られました。
さらに、ベットタウンとして住宅が増え、開拓団の繋がりも薄くなり、そして開墾農業共同組合は農家が少なくなったので、各地区の自治会になりました。

*******

この本の中で、大きく記憶に残る話が2つありました。

1つが、私が小さい頃にはすでにお爺さんで市議会議員だった加藤長治さんが、人のために一生懸命に働かれた姿。
もう一つが、全国で2番目に古い、私が通った保育園のことです。

戦争前、母の田舎でもある津久井地区(現相模原市緑区)は山間部のため農地が少ないので、農家の次男三男は農地を求めて、国策として満州開拓団として多くの住民が満州へ渡りました。その中に私の母方の親戚もいました。

長治さんも満州へ渡った一人で、ソ連侵略のために家族と離れ離れになり命からがら帰国するも、結局家族で帰国出来たのは自分だけ。しかも開拓団の中でも自分が一番のり。
でも、何とか生きていかないといけない、後から帰国する開墾団の仲間も、田舎に帰っても農地がないから暮らせない。
仲間の分の喰いっぷちも探す中で、相模原の演習場跡の開墾話に出会い、戦前から保土ヶ谷でワイン作りしていた皇国葡萄酒もこの地区の開墾に乗り出してたので、この関係者の協力を得て、まともな道具もない中、開墾を開始。
当時は開墾した分だけ自分の土地にしてよい条件。

でも、いつ帰国するかわからない仲間分の土地がなくなる前に、田舎から協力者を呼び寄せ、替え駒としてとりあえず開墾を続ける。
開墾はかなり厳しく、脱落者も続出。特に、元軍人上層部だった者ほど脱落していった。けれど、長治さん達帰国者は、何としてでも生きていかないといけないから、体力的に厳しくても踏ん張る。
ただ、悲しいかな生きて帰国出来た者が予想よりも少なかったので、替え駒さんも数名がそのまま定住。

戦後数年経ち、無秩序の開墾を整え、農家として自立するために開墾農業共同組合を長治さんを中心に結成。
さらに私が通った保育園も、長治さんが代表して役所に懇願書を出して掛け合ってくれたそうです。

ただ、開墾を共にしてきた皇国葡萄酒の社長と長治さんとで、開拓に対する考えの違いが露出。
当初から長治さんは、開墾者が自立して、土地の所有者として生活できることを目指していた。
それに対して、社長は葡萄園拡張のための小作人として、長治さん始め開墾者を利用しているつもりだった。
結局、社長が裁判を起こし、長治さん達の地区の農家が負けてしまい、生活が厳しい中15年近く葡萄園に賠償金を支払い続けた。
だが、戦後の農地改革などの影響で、皇国葡萄園は廃業となる。
長治さんはその後、なんの地盤もない相模原の市議会議員として立候補し、この地区発展のために活躍し40年議員を続けたのでした。

私はこの話を読んで、おばあちゃん先生の話を思い出しました。
人のため世の中のために、知恵も力もお金も出し切れば、天からの恵みが入ってくる。

長治さんは、自分のことで精一杯のはずなのに、仲間のことを考え、知恵を絞り、役所に掛け合い、皆の発展のために力を目一杯使った。
そうすることで、お金では買えない信頼を得ることが出来たし、徳を積むことが出来たんだと思います。

それに対して、葡萄園の社長は、その日を生きるのが精一杯の開拓団の人々を自分の会社の利益のために使おうとした。
裁判には勝って、お金は手に入れたけれども、キツイ言い方ですが、天に見放されたように感じます。

でも、自分がどちらのタイプかと言えば、悲しいかな社長の方だと。。。
だから、なかなか徳を積めなくても、まずは徳を減らしてしまうような自分勝手な言動とか裏切りとか悪どいことはやらないようにしよう、と思ったのでした。。。

そして、保育園についても、やはり利他のためにと言う開拓団の人々の思いやりの上に成り立ったことを知りました。

戦後すぐに、開拓で手一杯の中、子ども達の成長を願い、初めは青空保育で交代で面倒を見ながら、なんとか保育園を!と長治さんが代表して役所に掛け合い、自分達が開拓した土地を市に無償提供し、全国で公立で2番目の保育園が出来上がったそうです。

当時の人々には、本当にその日食べる物もない中でも、みんなの為に自分に出来ることは何か、と一生懸命な思いやりの心があったんだと思います。

実は、私はここの保育園にあまりいい想い出がなかったんです。
親から離される淋しさもあった記憶もありますし、なかなか親が迎えに来なくて、一人で職員玄関で待ちながら、保母さんのイライラを子供心に感じてたり。

それでも、ここの保育園が思いやりの心で出来て、お陰で働く親は助かったんだと思うと、まぁそんな記憶も多少は癒される感じはします。

今は、保育園不足が問題になってますけど、保育園あるのが当たり前になってますし、落ちたからと言って日本死ね!と批判したり、保育園作ろうにも、近隣住民から静かに暮らせないから反対運動が起きたり、と物質的に豊かになったはずなのに、自分中心の世知辛い世の中なのかな?としみじみ思いました。

そんなこんなで開拓史の本の中に、祖父や父や親戚の名前や苦労話を見つけると、なんか感動でした。

実家の菩提寺の日蓮宗の源吾山も、わざわざ開拓団の人々が心の拠り所として、土地を提供して、来てもらったとのこと。
だから、うちの親も含めて、この地区の人は源吾山との繋がりが強いことがわかりました。

色々と学べた貴重な本なので、こりゃ〜、両親にも教えなきゃ、と見せたら、お、この本うちにあるぞ〜、と。
ええ〜、聞いたことないよー!ちゃんと次の世代にも伝えてよ〜。

ちょっと読んだけど、忙しくてそのまま忘れてた〜、とのこと。
ま〜、若い頃に読めと言われても興味なかっただろうけど。

さらに、親からも追加で話を聞けました。
今は住宅街になってる土地は、そこのおばあさんが業者に騙されて白紙に印鑑押して土地を奪われたから、とか。お前も印鑑の扱いには気をつけろよ!とか。

まぁ、大事な話は、開拓団のご近所のご縁で、うちの両親が出会い、祖父母の元で夫婦になり、私や兄が生まれることが出来たと言うことです。

どんな土地にも、悲喜こもごも人々が生きた歴史があるのですね。
それが、大きな流れで日本の歴史になるのだと、しみじみ思いました。
by 祐介 * 戦争の記憶 * 18:28 * comments(0) * -

みたままつり

はい、まさみです。
7/15に祐介と靖国神社のみたままつりに行ってきました。
ちょうど祐介の会社にも近いので。

実は、何となく行かなきゃいけない気がしたのもあります。
東京でのお盆の時期に、安保関係で騒々しい世の中だからこそ、参拝しなきゃな、って。

昔なら、なんか怖いってイメージで近づきたくなかった場所ですが、満州で亡くなった母方の祖父は何故戦争で死ななければならなかったのか?何故、日本は戦争をすることになったのか?と調べる中で、靖国神社のことも知り、見方が変わったのもあります。

で話は戻り、祐介と待ち合わせする予定が、仕事が長引いたので、私だけで行くことに。

でもその前に、祐介の会社が入ってるビルの受付前まで行ってみて、会社から出てくる恐らく同僚さんと思われる人々の服装を観察。

私の実家が建築関係で、スーツなんて冠婚葬祭くらいしか着ない家だったし、私もあまりオフィス仕事してないので、サラリーマンのスーツ姿がよくわからないので、祐介に恥ずかしい格好させる訳にはいかないので勉強です(u_u)

でも、リュックを背負った東南アジア系の格好の私が入り口にいたら、受付のお姉ちゃん達に怪しまれたので、そそくさと退散し、一人みたままつりへ。







参道の大銅像の周りで盆踊り真っ最中。
よくよく見たら、浴衣を着てない一般の人、老若男女問わず、外人の観光客も一緒に踊ってました。
私も踊りたいムズムズした気持ちが湧きましたが、荷物あるし一人だし〜、と言う理性が働いて、そのまま本殿前へ。




本殿では、日本を護って頂いてありがとうございました、これからの日本を護ります、見守ってください、と想いを届けました。



その直後、ちょうどお神輿が2基やって来て、祭りのクライマックスに立ち会うことが出来ました。氏子さん達のお祓いの儀式にも一緒に参加させてもらいました。
場所も階段脇の最前列といい場所。

そこで、ご縁あって、隣りに立ってた浴衣を着た同世代の女性とお話しすることに。
浴衣お似合いですね〜、とか
お神輿カッコいいですね〜、とか
こうやって伝統が続いてるっていいですよね、
平和だから続けられるんですよね、とか。
一期一会なご縁で、お互い同じ想いを共有出来た時間でした。



本殿前には、著名人や芸術家や遺族会の方々が描かれた灯篭が飾られてました。
これは漫画家のちばてつや氏。


樹木希林さん。




遺骨収集の話が描かれた灯篭。
祖父の骨も拾えてないので、共感しました。


富士山と天女様が気に入って。

ニュースで、今年は露店の出店がなくなったことは知ってましたが、なんせみたままつりは初めてなので、今までとの違いがわかりませんが、私は露店ない方がいい気がしました。

出店取り消しの理由が、ナンパ目的、騒ぎたい若者の溜まり場になって収拾つかないからだそうで。
確かに、露店ないのは祭りとしては寂しいでしょうし、平和だからナンパ出来ると言えるかも、ですが、それは平和ボケとも言えるかと。
自治会の盆踊りならいいかも知れないですが、この神社の成り立ちを考えると本質を見失っては本末転倒かと。

それに、出店ないことで落ち着いた雰囲気で、皆がじっくりと灯篭の想いを観ることが出来たり、盆踊りに参加したり、と一人一人がこの場所の意味を感じられたんじゃないかと思いました。

そんなことを思ってる内に、祐介もやっと仕事が終わり、8時半くらいに来れました。
以前もみたままつりに来た事があった祐介は、大鳥居から入ったのが初めてで、その大きさに驚いてました。

その時、もう1枚灯篭の写真を追加で撮りました。


漫画家小林よしのり氏のです。
「チベット 民族浄化」
で、検索すればヒットする、チベットの実情を描いたこの方のマンガを初めて読んだ時は衝撃的でした。
日本にとって、チベットは対岸の火事ではない、と思ってます。

平和で穏やかな将来をどう創り出すか?
考えさせられる今日この頃です。


by 祐介 * 戦争の記憶 * 18:29 * comments(0) * -

広島江田島〜元海軍兵学校見学

はい、まさみです。

広島旅行での、海軍学校のこと祐介から振られたのを、今更ながら投稿します。

牡蠣食べた後、無計画だったので港の観光協会にオススメの観光スポットを尋ねました。

と、あと5分で出発の江田島行きフェリー乗れば、海軍学校見学に間に合う!とよく検討もせず、じゃあ行ってみるか!とフェリーに飛び乗りました。

飛び乗りながらも、こう言う流れって、行く必要のある所に自然に導かれてるな〜、とは感じてました。

で、見学開始時間ギリギリに到着。
詳しくはこちらのサイトをご覧ください↓

  旧海軍兵学校(海上自衛隊第一術科学校と幹部候補生学校)を見学


見学者はおおよそ20人ほど。女性一人の参加者もいました。

現在ここでは 防衛大学校、防衛医科大学校および一般大学の卒業生、航空学生、海上自衛隊の部隊から選抜された者、公募された幹部が 海上自衛隊の幹部となるべく学んでおり、
それぞれ数週間から1年程度の期間教育を受けます。とのこと。

ドラマ「坂の上の雲」の撮影にも使われたようです。全くこのドラマも原作も知らないもので、ここに来るならわかった上でがオススメです。

大正時代に作られた大講堂の内部は、おばあちゃん先生の講演会を開催した横浜開港記念館と造りがとても似ていました。

最後に見学した『教育参考館』は、日本帝国海軍の栄光と終焉の史料館です。

ここには、特攻隊員の遺書など展示されてますが、貴重な資料は終戦の際、アメリカ軍から守る為に、一度神社に寄付?奉納?と言う形で避難し、後年それが戻されて展示することが出来たものだそうです。

入場前に説明者の方からは、ここは戦死者の遺書や慰霊碑もあるので、脱帽と厳粛な気持ちで見学してほしい旨、説明がありました。
そして、着慣れない背広姿の学生の団体と入場が同時になりました。

おばあちゃん先生から、正しい歴史を知りなさい、と言うことで、最近ちょっと歴史の勉強してるので、展示物から伝わるリアルさはとても重いものがありました。

どうも学生はレポート提出あるようで、掲示物の説明文を一生懸命メモしてる子もいれば、まぁどこの学校にもいる、つるんで騒ぐ集団もいまして、
「山本五十六やばくね!?ギャハハ!」
なんて、はしゃぐ姿はここの場には合わないね〜、とおばちゃんいつ注意しようか?と観察してました。

そして、次の部屋に進むと、そこからは特攻隊員の遺書などが展示されていました。
さらに展示ケースとは反対の壁には、特攻隊の戦死者名が壁一面に彫られていました。
その中央には、供養台があったので、祐介と共に、命を懸けて日本を護って頂いてありがとうございました、と手を合わせました。

私たちの姿を見た騒がしかったグループは少し大人しくなり、また一生懸命メモしてた子達は、ちょっと恥ずかしそう周りを気にしながらも、同じように手を合わせました。

そんな子達の姿を見て、供養をやれ、と強制できるものでなくて、自分が供養する姿を背中を見せて、伝えていくものなんだ、と思いました。

特攻隊員の年齢は、10代後半から20代前半。その遺書の文面から、なんて精神性が高いのだろう、と。

今、見学しているこの子達と同年代。
そして、私たちはその親世代。

そんな私たちが、戦争体験を直接聴けた最後の世代なのだ、と改めて、戦争の記憶が薄れていきつつあること、そして伝える大切さを感じました。
by 祐介 * 戦争の記憶 * 16:20 * comments(0) * -

パラオとペリリュー島の戦いのお話 - ねずさんの ひとりごと

はい、まさみです。
今日4月9日に、天皇皇后両陛下がパラオのペリリュー島の慰霊碑にご供花され、ニュースでもパラオが親日国だと取り上げられてます。

おばあちゃん先生は、正しい歴史を学びなさい、と教育方面でも精力的に活動されてますが、お陰で私も学校で学んだ歴史には偏りがあったことに気づくことが出来ました。
おばあちゃん先生の繋がりで、今回のペリリュー島と日本との深い話も教えてもらい、目からウロコでした。

そして、私がいつも歴史の勉強させてもらっている「ねずさんのひとりごと」と言う保守系のブログにも、より詳しく掲載されてたので、転載します。


なぜパラオの人々が日本を好きでいてくれるのか?が理解出来る内容です。

今の日本とパラオの友好的な関係があるのも、先人達が積んでくれた徳のお陰だと。そして、それに対して、恩を忘れずにいてくれるパラオの人々のお陰だとわかりました。

ニュースでは、ここまでの話は取り上げないとても深い内容なので、長文ですがぜひ全部読んでもらいたいものです。

パラオとペリリュー島の戦いのお話 - ねずさんの ひとりごと


<以下一部転載>


だから、パラオは日本の植民地だった、という人がいます。
違います。
パラオは、あくまで国連からの正式な委任によって、日本が統治したものであり、その日本は、パラオから収奪するどころか、教育、文化、行政、法制度、都市インフラにいたる、あらゆるものを与えました。
(一部省略)

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昭和16(1941)年、大東亜戦争が始まりました。
日本はこの年の翌年早々にはパラオ南部のペリリュー島に、1,200メートルの滑走路2本を持つ飛行場を完成させています。

パラオは、開戦した日本にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、また日本の太平洋防衛圏上の、重要な拠点となったのです。

日本にとって、防衛上重要拠点であるということは、敵対する米軍にとっては、脅威です。
なぜならフィリピン奪還に総力をあげる米軍にとって、パラオ・ペリリュー島の日本軍基地は後背部を脅かす存在だからです。

昭和18(1943)年、米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官、連合軍中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官であるチェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画しました。

当時、ペリリュー島には、899名の島民がいました。
米軍は、刻一刻と迫ってきます。

島民たちは、白人統治の時代を知っています。
そして日本統治の時代も、身をもって経験しています。

日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた島民たちは、集会を開きました。
そして全会一致で彼らは、大人も子供も一緒になって日本軍とともに「戦おう」と決めました。

こうした村人の会議という制度は、パラオ古来の慣習です。
いまでもパラオではこうした会議が行われ、そこには村人全員が参加します。
全員です。
そして話し合いは、全員がひとり残らず納得するまで、何日でも続けて行われます。
議場に籠って話し合い続けるのです。
そうして、みんなの意思を固める。

全員一致で「日本軍とともに戦う」と決めた彼らは、代表数人で日本軍の守備隊長のもとに向かいました。
当時のペリュリューの守備隊長は、中川州男(なかがわくにお)陸軍中将(任期当時は大佐)です。

中川中将は、熊本の玉高の出身で、陸軍士官学校の第30期生です。
日頃からもの静かで、笑顔の素敵なやさしい隊長さんだったそうです。

中川大佐がパラオ、ペリュリュー島に赴任したのは、昭和18(1943)年6月のことでした。
家を出る時、奥さんから「今度はどちらの任地に行かれるのですか?」と聞かれた中川中将は、にっこり笑って
「永劫演習さ」とだけ答えられたそうです。
「永劫演習」というのは、生きて帰還が望めない戦場という意味です。

温厚で、日頃からやさしい人であっても、胸に秘めた決意というのは、体でわかるものです。
そしてそういう中川隊長なら、パラオの島民たちが、自分たちの頼み・・・一緒に戦うこと・・・をきっと喜んで受け入れてくれるに違いない。
だって、ただでさえ、日本の兵隊さんたちは兵力が足りないのだから。
ペリュリューの村人たちは、そう思い、中川中将のもとを尋ねたのです。

そして中川中将に、「わたしたちも一緒に、戦わせてください!」と強く申し出ました。
「村人全員が集まって、決めたんです。これは村人たち全員の総意です。」

中川隊長は、真剣に訴える彼らひとりひとりの眼を、じっと見つめながら黙って聞いておられたそうです。
一同の話が終わり、場に、沈黙が訪れました。

しばしの沈黙のあとです。
中川隊長は、突然、驚くような大声をあげました。

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」
烈迫の気合です。

村の代表たちは、瞬間、何を言われたかわからなかったそうです。
耳を疑った。
(俺たちのことを「土人」と言った?)

そのときは、ただ茫然としてしまいした。
指揮所を出てからの帰り道、彼らは泣いたそうです。
断られたからではありません。
土人と呼ばれたことがショックでした。
怒りではありません。
あんなに仲良くしていたのに、という悲しみの方が大きかった。

日頃から、日本人は、自分たちのことを、仲間だと言ってくれていたのに、同じ人間だ、同じ人だ、俺たちは対等だと言ってくれていたのに。
それが「土人?」
信じていたのに。
それはみせかけだったの?

集会所で待っている村人たちに報告しました。
みんな「日本人に裏切られた」という思いでした。
ただただ悲しくて、悔しくて。
みんな泣いてしまいました。



何日がが経ちました。
いよいよ日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきました。

港には、日本兵はひとりも、見送りに来ません。
島民たちは、悄然として船に乗り込みます。
島を去ることも悲しかったけれど、それ以上に、仲間と思っていた日本人に裏切られたという思いが、ただただ悲しかったのです。


汽笛が鳴りました。
船がゆっくりと、岸辺を離れはじめました。


次の瞬間です。
島から「おおおおおおおおおおお」という声があがりました。
島に残る日本兵全員が、ジャングルの中から、浜に走り出てきたのです。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送ってくれたのです。

そのとき、船上にあった島民たちには、はっきりとわかりました。
日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。
そのために、心を鬼にして、あえて「土人」という言葉を使ったのだと。


船の上にいる島民の全員の目から、涙があふれました。
そして、岸辺に見える日本兵に向かって、島の人たちは、なにか、自分でもわからない声をあげながら、涙でかすむ目を必死にあけて、ちぎれるほど手を振りました。

船の上から、ひとりひとりの日に焼けた日本人の兵隊さんたちの姿が見えました。
誰もが笑っています。
歌声が聞こえます。

そこには中川隊長の姿もありました。
他のみんなと一緒に笑いながら、手を振ってくれていたそうです。
素敵な笑顔だったそうです。
当時の人は、その笑顔が、ずっとまぶたに焼き付いていたといいます。



昭和19(1944)年9月12日、ペリリュー島をめぐる日米の戦闘の火ぶたが切って落されました。
島に立てこもる日本軍10,500名。
対する米軍は、総員48,740人です。

火力に勝る米軍は、その日から、航空機と艦砲射撃によって、すでに補給を断たれた日本軍の数百倍の火力を小さなペリュリュー島に投下しました。

最初に米軍は、艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせ、周囲のジャングルを完全に焼き払いました。
海上に築いた日本軍の防衛施設も、完全に破壊しました。
そして9月15日、「2、3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とする第一陣、約28,000人が島に上陸を開始しました。

米軍の上陸用舟艇が、続々とやってくる。
島はじっと沈黙したままです。

米軍は、海岸に上陸し、そこに陣地を巡らしました。

そのときです。


突然の集中砲火が、米軍の上陸部隊を襲ったのです。
それまで、地中深くに穴を掘り、じっと時を待っていた日本軍が、満を持して反撃を開始したのです。

水際での戦闘は凄惨を極めました。
米軍の第一次上陸部隊は大損害を蒙り、煙幕を焚いて一時退却をしています。

この戦闘で、米軍の血で海岸が赤く染まりました。
いまでもこの海岸は「オレンジビーチ」と呼ばれています。

10月30日には米軍第1海兵師団が全滅しました。
米海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、心臓病を発病して後方に送られています。
将官が倒れるほど、それほどまでに、すさまじい戦いだったということです。
この時点で3日で終わるとされた戦いは、なんと1ヶ月半も継続していました。

けれど、日本軍には、補給が一切ありません。
食料も水もない。
夜陰に紛れて、せめて怪我をした仲間のためにと水を汲みに行って米軍の猛火に遭います。
だから水場の近くには、日本兵の死体がかさなりあっていました。


日本軍の抵抗は次第に衰えを見せはじめます。
米軍の火炎放射器と手榴弾によって日本軍の洞窟陣地は次々と陥落していきます。

11月24日、日本軍は司令部陣地の兵力弾薬も底を尽き、司令部は玉砕を決定します。
中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐が、この日、司令部で割腹自決を遂げます。

その後に、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られました。
そして翌朝にかけて、根本甲子郎大尉を中心とした55名が、最後の突撃攻撃を敢行しました。

こうして11月27日、ペリリュー島は、ついに陥落したのです。
米軍の上陸開始から2ヵ月半が経過していました。

中川隊長の異例の奮闘に対して、昭和天皇は、嘉賞11度、感状3度を与えられています。


戦闘が終結したあと、米軍は島のあちこちに散る日本兵の遺体を、そのまま放置していました。
米兵の遺体はきちんと埋葬しても、日本兵の遺体は、ほったらかしだったのです。

戦闘終結からしばらくたって、島民たちが島に戻ってきました。
彼らは、島中に散らばる日本兵の遺体をひとつひとつ、きれいに片付け、埋葬してくれました。


戦後、パラオは、米国の信託統治領となります。
けれど、米国は、島民たちへの教育はおろか、島のインフラ整備にも消極的でした。

島民たちは、パラオ本島と一緒になり、独立運動を開始します。
そして、ようやく戦争から36年目の昭和56(1981)年、パラオは自治政府の「パラオ共和国」となりました。
そのパラオが米国の信託統治を外れて、名実共に独立国となったのは、なんと平成6(1994)年のことです。

独立したとき、パラオの人々は、独立記念の歌を作りました。
以下がその歌詞です。

一 激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
  オレンジ浜を血で染めた
  つわものたちはみな散って
  ペ島はすべて墓(はか)となる
  (注:ペ島=ペリュリュー島のこと)

二 小さな異国のこの島を
  死んでも守ると誓いつつ
  山なす敵を迎え撃ち
  弾射ち尽くし食糧もない

三 兵士は桜を叫ぴつつ
  これが最期の伝えごと
  父母よ祖国よ妻や子よ
  別れの”桜"に意味深し

四 日本の”桜"は春いちど
  見事に咲いて明日は散る
  ペ島の”桜"は散り散りに
  玉砕れども勲功はとこしえに

五 今もののふの姿なく
  残りし洞窟の夢の跡
  古いペ島の習慣で
  我等勇士の霊魂守る 

六 平和と自由の尊さを
  身をこなにしてこの島に
  教えて散りし"桜花"
  今では平和が甦る

七 どうぞ再びペリリューヘ
  時なしさくらの花びらは
  椰子の木陰で待ちわびし
  あつい涙がこみあげる    

そして、下にあるのが、独立したパラオ共和国の国旗です。
この国旗は、パラオ国民の間からデザインを一般公募した結果、全会一致で採用になった国旗なのだそうです。

パラオ共和国国旗



周囲の青は太平洋。まんなかの黄色い円は月をあらわしています。
月は日章旗の太陽との友好を示すものなのだそうです。

そして、パラオの国旗の満月は日の丸の旗の太陽とは違って,中心から少しズレています。
日本に失礼だからと、わざと中心をはずしたのだそうです。
これはパラオの人たちの慎み深い態度を表しているのだそうです。

お亡くなりになられた、英霊の方々に深い哀悼の意を表するとともに、深く深く感謝いたします。

また、戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延び、終戦の2年後まで戦い続け、昭和22(1947)年に投降しています。

【ペリリュー島の戦い】
日本軍
 戦死者 10,695名
 捕虜    202名
米軍
 戦死者 2,336名
 戦傷者 8,450名
村人の死者、負傷者、0名

<転載終わり>


そして、学校では教えられなかった歴史で、おばあちゃん先生も特に強く教えてくれたことが、このブログにも書かれているので転載します。

<以下一部転載>

パラオが、白人の植民地となったのは、明治18(1885)年のことでした。
スペインが植民地として支配したのです。

スペインの統治は、たいへん過酷なものでした。
スペインによる統治は、明治32(1899)年に、ドイツの植民地になるまでのわずか14年ほどの間のことです。
けれどたった14年で、パラオの人口は、約90%も減少してしまったのです。

もともと、人口2万人くらいの島国です。
そのうちの90%が命を奪われた。
それがどういうことか、想像してみてください。

忘れてならないのは、植民地支配を受けた国々では、大なり小なり、同様のことが起きた、という事実です。
南米では、文明そのものが滅び、いまでは昔の言語、習慣さえもわからなくなっている。
ほんの200年に満たない昔が、まるで超古代文明のように、その痕跡しかなくなっているのです。

米国においても、先住民族であるインデアンが、もともとは北米大陸に800万人の人口があったのに、いまでは、わずか35万人。しかもその全員が、白人との混血です。

「植民地になる」ということは、そういうことなのだ。
そのことを、私達はちゃんとわきまえる必要があります。

私達の先人が、日本が植民地とならないために、(なったら10人中9人が殺されるのです)、どれほどの犠牲と努力をはらい、日本を護り抜いてきてくれたか。
そのおかげで、いまの私達が生きています。日本という国があります。
平和を満喫し、世界中のおいしい料理を食べることができ、エアコンの効いた部屋で過ごせるという豊かな生活を送ることができています。
それは他の誰でもない。私達の先人たちが、私達を守ってくれたおかげです。
そういうことを、私達は、ちゃんと知らなきゃいけないし、子供達に教えなきゃいけないと思います。



(一部省略)

短い期間でしたが、日本は委任統治を受けたパラオで、たくさんのことをしました。
学校をつくり、教育を与え、司法、行政、立法を教え、街のインフラを整備しました。

けれど日本人がパラオに遺したもの、それは、そうしたインフラよりももっともっと大きなもの・・・「ほんとうの勇気」、「ほんとうのやさしさ」だったのではないでしょうか。

中川隊長以下、勇敢に戦い、散って行かれたみなさまに、あらためて黙祷をささげたいと思います。

<転載終わり>

天皇皇后両陛下の慰霊の旅により、すべての御霊の鎮魂となりますように。。。
by 祐介 * 戦争の記憶 * 17:53 * comments(0) * -

8/15

はい、まさみです。
8/15。
終戦記念日であり、母方の祖父の命日です。
以前も書きましたが、終戦の日に、満州でソ連による侵略の戦闘により亡くなりました。

毎年、お盆の時期と言うのもあり、お祖父ちゃん始め、ご先祖様の事、戦争で亡くなった方々の事を思います。

ここ数年、祖父の最期を色々と調べる中で、沢山の戦争体験記を読みました。
それは、読むに耐えない物ばかりでした。
人間が同じ人間に対して、本当にこんな惨い事をやれてしまうのか、と。。。

でも、どれもしっかり事実として知っておかないといけないものだと思いました。

また一方で、家族を守る為に戦場へ赴き、命を捧げた若者の最期の手紙も読みました。
その責任感の強さに、自分のへなちょこさを痛感しました。

また先日、祐介と映画「終戦のエンペラー」を観に行きました。
昭和天皇が命懸けで戦争を終わらせようとした事を知りました。

今、この日本で色々な問題があっても、まずは何よりこの大地があること、そして日本と言う国があること、またそこで生きていけることに、感謝を忘れないで生きたいな、と改めて思う1日でした。
by 昌美 * 戦争の記憶 * 00:49 * comments(0) * -

6.戦争の記憶〜靖国神社

はい、まさみです。続きます。

そして今年。
祐介が7/13からの靖国神社のみたままつりに行きたいとおもむろに言い出しました。
「屋台にワクワクする一般的なお祭とは違うよ。行くなら、お国のために亡くなった人達が成仏出来ますようにって気持ちでね。お祖父ちゃんだって、靖国に祀られてもおかしくないんだから」

ふとした自分の言葉。
そうだ!陸軍軍属なら軍関係者として靖国に祀られるはず。なんで今まで気づかなかったんだ?
去年、参拝して何か足りない感覚はこの事だったのか?

いつも供養のきっかけは、祐介からもたらされるんですよね。
祐介、good job!

母によると、戦後、故郷の戦争遺族会で靖国神社参拝バスツアーがあったそうな。ただ、集合場所に集まった祖母は乗車を断られたと。
軍関係者ではないから、との理由で。

当時、何か間違いがあったのかも知れない。
急いで、靖国神社の調査課に問い合わせ、除籍謄本を取りに行き、資料を靖国神社の調査課に持って行きました。
もしかしたら、祖父の命日の8/15に間に合うかも知れないから。

しかし、結局は、祖父は祀られる対象ではありませんでした。
対象であるには、
除籍謄本に戦死と記載あること。
ただの死亡との記載ではダメ。
または、召集令状や遺族年金の受領証など何かしらの公文書がある事。
ただの伝聞や写真ではダメ。
また軍属も合祀対象だが、軍病院の看護婦や、軍の工場の労働者など軍関係の施設で働いていた人。
民間で一部軍関係の仕事していたのは対象外。

ならば何故、慰霊碑に陸軍軍属と記載されていたのか?
故郷の公民館に問い合わせるも、慰霊碑を管理している故郷の遺族会も、当時を知る人は殆ど亡くなっているか、幼かったからよく事情を知らない者しかいない、との事。
どんどん戦争を知る人達が亡くなっていて、今さら知る術がなくなっていました。

もうこれ以上は無理だ。
お祖父ちゃん、ごめんね。

でも、除籍謄本を取ったお陰で、知らなかった親戚がこんなに沢山いた事、それぞれの誕生日や命日、出生地が正確にわかりました。
命の繋がり、ルーツを知る事が出来た、それで良しとさせてね。
ちゃんとみんなで供養しているからね。

ただ靖国神社に祀られなくても、
お祖父ちゃんは戦争で亡くなったと言うことです。
病死でもない。
自ら望んだ訳でもない。
戦争によって人生を終わらされた、と言うこと。

それはもちろんお祖父ちゃんだけじゃありません。
太平洋戦争の戦死者
軍人230万人
一般人80万人

それを忘れかけてる世の中になりつつある事への危惧。
戦争をけしかけようとする動きを感じる最近の国際情勢。

「戦争は酷い、戦争は絶対にダメだ」
幼い頃から何回も聞かされてきた祖母達の想い。

祖父母達、先人達の壮絶な戦争体験を直接聴いた者として、何とか後世に伝えたい想いがあります。

祖母の引き揚げ体験の手紙を何かしら公けの場に残したいと思っています。
でも、まずは親戚同志、想いを共有出来たらいいなと。
出来れば、来月の祖母の13回忌に。。。

by 祐介 * 戦争の記憶 * 22:20 * comments(0) * -

5.戦争の記憶〜伯父さん

はい、まさみです。
今日は67年目の終戦記念日ですね。
そして母方の祖父の命日です。

3年前に亡き祖父の想いに気づき行動してきて、この時期に毎年投稿してきた戦争の記憶。

戦争の記憶1〜4
時をこえ

2年前、祖母の手紙を元に詳しく書こうとしましたが強い抵抗があって、中途半端になってました。まだ状況が整ってなかったんですね。

昨年、祖父の事を調べ尽くしたはずでしたが、やる事が残っていました。
それは伯父さんに満州の記憶を聞く事でした。

始まりは3年前から、祖父の想いに導かれるように行動したこと。
まず、故郷の祖父母の墓参り。
不思議だったのが、それまで何度祖父の名前を聞いても見ても憶えられなかったのに、その墓参りの際、墓石に刻まれた名前がなぜか強烈に頭に入ったこと。

そして、墓参りの後、故郷の神社に初めて立ち寄りました。その境内を何となく気になったので歩くと戦没者の慰霊碑を見つけました。まさかと思いましたが、最後の最後に祖父の名前を偶然見つけました。
まさに、キターーー!!と言う感じで、思わず鳥肌。
さっき目に焼き付いた祖父の名前で間違いありませんでした。そして、陸軍軍属と言う肩書きが。それは意外でした。民間の貿易商と聞いていたので。

慰霊碑の存在は、祖母から一切聞いた事はなかったですし、母も伯父さんも知りませんでした。
きっと、お祖父ちゃんはずっと気づいて欲しかったのかも知れないな、と。
この神社は、祖母の鎌倉時代のご先祖様が建立したもの。ご先祖様がお祖父ちゃんを守ってくれてたと感じ感謝でした。

その後、昨年のお盆に向けては、何か追い立てられるように資料を集めました。
故郷の図書館の町史に記載されていた戦没者一覧に祖父の名前を発見しました。
そこには、本籍地や、満州の首都である新京での戦没地の記載がありました。

戦没地が新京のどんな場所だったのか知りたくて、国立国会図書館で詳細な地図を入手しました。A0サイズの超特大。
その地図を見ながら、なぜ祖父はこの場所で亡くなったのか?、最期何があったのか?想いを馳せました。

さらに昨年のお盆に、人生初の靖国神社参拝をしました。
何だか祖父が行きたがっている気がしたからです。ただ、参拝後、何かが足りない感覚がありました。

そして、今まで集めた資料と手紙、全てを母はやっと見てくれました。
今まで戦争の話を拒んできた母。
祖母の引き揚げの手紙も読む事がありませんでした。
私がゴリ押ししても反発あるだけだから、母の心が解れるのを待つしかないと思ってきたので、母の変化はうれしかったのでした。

そして、その次の課題は、伯父さんに資料を見てもらい、当時の話を詳しく聴く事でした。
それは、私にとって、とても勇気がいる事でした。
なぜなら、祖母の葬式で、祖母の想いを感知した私は伯父さんと大げんかした過去があるもので。。。
祐介との結婚のお陰で、伯父さんへのわだかまりは大分なくなりましたが。

でも、母に取り付いでもらいましたが、闘病中だからと会う事は叶いませんでした。
そして、数ヶ月後、話が出来ぬまま伯父さんは亡くなってしまいました。
追い立てられたあの感覚。もっと信じれば良かった。
理性でまた来年があると言い聞かせてしまった事を後悔しました。

でもその後、母自ら動いてくれ、伯母さんに資料と手紙を渡してくれました。
祖母の手紙を読んだ伯母さんは、
「お祖母さん、苦労したんだね」と。
その言葉に祖母も報われたはずです。

そして、伯父さんの葬式の席で伯母さんから色々聴けました。
祖父は満州で生きているはず、と伯父さんが中国に探しに行こうとしたこと。その他、出来れば聞きたくなかった大人の事情など。

伯父さんの入院中、あんなに色々調べてもらっていたのなら、会ってもらえばよかったね、と伯母さん。

確かに会えていたらもっとわかった事があったかも知れなかったです。
でも、それだけじゃなく、農業高校の先生の経歴があり、最期の最期まで畑を大切にしていた伯父さんと、農業の話をしてみたかったです。

母とももっと早くわかっていたらと話しましたが、でも、今だから皆それぞれ話せた話だったかも知れません。
戦後67年記憶の奥底に仕舞い込んだ辛い体験。
そして20年近く続いた親戚間のわだかまり。
それが解れるには時間とタイミングが必要だったんだと。。。

続く
by 祐介 * 戦争の記憶 * 16:17 * comments(0) * -
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