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8:戦争の記憶〜満州引き揚げ体験記

※文中のカッコ内( )は、私の追記です。
また、丸○は、文字が判読出来なかったものです。


<祖母の満州引き揚げ体験記>



昭和14年4月、満州に子供1人(長男)を連れて行きました。
主人は前年(昭和13年)、お祖父さんはその前年(昭和12年)に行っておりました。
何不自由なく暮らしておりました。
(主人=祖父は陸軍軍属として、貿易商を営む。)

昭和20年8月15日、終戦になり主人は新京(現在の吉林省長春市)におりましたが、
(祖母は、新京の南西約60キロの吉林省公主嶺市に離れて暮らす。新京の祖父から祖母の近くに暮らす義弟嫁宛てに、電話でソ連が侵略して来たから逃げろ!と連絡あった。)
いつ帰ってくるか安否を待っているうちにも、満人が非道極まりなく暴れ回り、ロスケ(ロシア人への蔑称)も入って来て、命も縮む思いで子供をかばいながら隠れていて、ようやく命だけは助かったので、それから子供3人を連れて弟(祖父の弟)の所に厄介になる様になりました。
実に、生きて居る心地はしませんでした。
今考えると、ぞっとする程です。


8月29日分かったのですが主人は8月15日終戦と同時に亡くなり、(満州国新京市北東部の東天街の防空壕内にて)
お祖父さんも8月31日に亡くなりました。
私が34歳の時でした。
子供は大きいのが8歳、次が5歳、次が2歳足らず(私の母)の子供を残され、3人の子供をこれからどうして育てたらよいか途方に暮れました。


そのうち北満(満州の北部)から避難民がぞくぞくやって来ました。
内地(日本)に長男だけは連れて帰ってもよい、小さな子供は足手まといになるからつれて帰ってはいけない(小さな子供が泣くと敵に見つかってしまうため。)と申されましたが、我が子をどうして満州に残して帰れませう。

荷物を制限され丸帯をリュックにして、(土地の権利書を着物の襟の中に縫い付けて)、身の回り品を少し持って引き揚げ命令が出るのを今か今かと待って居りました。


21年7月21日に引き揚げ命令が出ました。(命令までの約1年間の暮らしをどうしていたかは不明)

(グーグルマップによると住んでいた公主嶺市から大連港までは約640キロ。大連までの道中、自分の子供を小屋に入れ火を点けた者、中国人に預けた者もいたそう。そして、子供を置いてきた罪悪感から引き揚げ船から身を投げた親もいた話もあり。)

途中船の中、お米配給もなくコーリャン(モロコシ)を食べて子供達はお腹をこわし、本当にひどい目に遭い、主人がいたなら荷物は持ってくれるでしょうにと思い、3人子供を連れて大隊中隊小隊と分かれて来ましたが、段々と落伍してしまい、みんなに励まされて来ました。
途中、船の中からコレラの保菌者が出たので、あちらに1週間こちらに1週間碇泊しておりました。
敗戦の惨めさを本当につくづく感じました。


船の中で、内地に帰ったら着る物に困るだろうと思って甲板に出ては、子供の物を仮縫いして来ましたから、それを縫って居りました。
内地に帰ったら、そんな事をしてはいられない、食べる事を考えなければと思い。


ようやく9月8日に博多に上陸致し、9月11日に懐かしい鳥屋(現在の神奈川県相模原市緑区鳥屋)の実家に着きました。
途中52日目で帰って来ました。

それから実家に1ヶ月お世話になって働いて居りました。
いつまでもお世話になっている訳にもいかないので、他のうちを借りて居りました。
帰って来てみれば食糧難でサツマイモの買い出し、木炭を持って行ってお米と交換して来ました。
小さい子供3人を残して外に出て働き、◯に学校から帰って来れば、3人で◯を食べて学校に行き、外へ出て働くと子供が可哀想と思って、幸い山、畑を残して満州に行ったものですから、何しろ家もなく、どんな家でもよい雨風がしのげればよいと思って、23年に小さな家を建てました。
今の様ではありません、働く所もなく何をして子供を育てたらよいかと思って、小さなお店(駄菓子屋)を始めました。
畑も返して頂いて、4畝ばかりの畑を耕作して16品も蒔き付け、鍬を持った事のない私は子供にお腹一杯食べさせたいと思って、一生懸命やって来ました。


福祉のお世話になって生活保護を頂きながら、子供を育てて参りました。
子供が学校に行っているうちにお夕食の仕度をして、子供が帰って来れば店番をさせて畑に飛び出し、そして現在のようではありません、石油、ガスもなく薪木を取りに、長男を連れて山に行きました。
私は主人にも主婦にもなり下男にも下女にもなって働きました。
私のヒガミから知れませんが、引き揚げて来たので皆様から馬鹿にされる様な気がして、よし男にも負けまいと思い、子供だけは一人前に育てたいと思い、自分ながらキツイ人間になりました。
そして再婚の話もありましたが、子供に対しては本当の父ではなく子供がどんなになるかと思えば、とてもその気になれませんでした。


保護費も1ヶ月500円に減額されてしまい、どうする事も出来ず、民生委員の申されるには、山畑があるので全部売ってしまえば、もっとたくさん保護費を上げてやると申されましたが、売ってしまえばそれまでと思い、何とかして今日まで持ちこたえて来ました。

長男が高校へ行きたいと言うので、主人の弟が出してやると言うので、働きながら高校に出して頂きましたが、先方にも同級生が居りますので、3年生から育英資金を借りて卒業をしました。

次男が中学を卒業しましたので、生活保護を打ち切りました。
その時、長谷川所長さんから「がんばってやってくれ、どうしてもやっていけなければ申し出せ、その時はなんとかしよう」と言って激励のお言葉をいただき、また民生委員をしていらっしゃる郡会長さんからもお情け深いやさしいお言葉をいただき、一生忘れる事は出来ません。

次男は母子福祉資金を借りて高校に行き、新聞配達をして通学を致しました。
父母のある他所の子供はバスで通学するのですが、新聞配達をするのですから自転車で通学致しました。
そのお金で学用品を買ったりしました。

その時、近所の人からは未亡人の子供のくせに高校へやる、炭焼きの子供は炭焼きをしていればよいと申されましたが、勉強をするときにしないと後ではなかなか出来ないと思い、福祉資金を借りました。
どうか皆様方の中にも高校に行きたいと言う子供さんがおりましたら、母子福祉資金をお借りしてはどうか、子供さんに勉強だけはさせてください。


今は、3人子供もそれぞれ世帯を持ってみんな子供も出来ました。
私も婦人会の方から会長を仰せつかって2年間やらせて頂きました。
以前生活保護を頂いておりましたが、お金ではお返しする事は出来ませんので、2年間社会奉仕のつもりでやらせて頂きました。
万分の一でもお返し出来ればと思い、一生懸命やって参りました。
今では長男とも勤めの都合上別居しておりますが、一人でお店をやりながら自分の好きはお裁縫を少しずつやって居ります。
今どうにかやって居りますのも福祉の皆様方、また多くの皆様方のお陰と思い、感謝致して居ります。
簡単ではございますが、私の拙い話をご清聴ありがとうございました。
皆様お体をお大切に一人の親です、どうぞご自愛なさってください。


 昭和42年郡母子福祉会総会にて発表いたしました。
by 祐介 * 戦争の記憶 * 17:32 * comments(0) * -

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